リュック  牛革製品  アルパカ  コースター  チェス  民族楽器
 

 ボリヴィア紀行

先住民族とスペイン人征服者たち

 ▲一つ前に戻る ▼次のページへ  | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |


 さて、今回はここボリヴィア国の「民族と文化」と題してお話します。 

 約500年前のコロンブスによるアメリカ大陸到達以前、これらの広大な土地にはすでに先住民(インディヘナ)たちが住んでいました。 彼らの祖先は太古の昔、まだユーラシア大陸とアメリカ大陸が繋がっていた氷河期の終わりの約2万年前ごろ、狩猟動物を求めてアジア地域からアメリカ大陸へと渡ってきたと考えられています。
  アメリカ大陸先住民の身体的特徴は、アジア人(類蒙古人=モンゴロイド)に非常にちかく、生まれたばかりの子どもには蒙古斑(お尻に現れる紫色の斑)が頻繁に見受けられます。最近のDNAの研究でも、この近似は裏付けられています。アジアとアメリカ大陸を隔てている幅がわずか50キロメートルのベーリング海峡の出現(1万5千〜2万年前)によって、この民族移動はほとんど止まり、先住民たちは農耕を中心とした定住生活を営むようになりました。南米ボリヴィアの先住民たちも、そのルーツをたどっていくとアジアのモンゴロイドです。街中では、ときどき日本人かと見間違えるような容貌の先住民の人とすれ違うごとがあります。私たち日本人にとって、どこか相通じるようなところがあり、親しみを覚えます。

 紀元前後には、ボリヴィアの海抜4000mのティティカカ湖畔に巨大な石の建造物と土器・青銅器などに特徴付けられた宗教都市の文化がアンデス山脈一帯に広がっていきました。先住民アイマラ族によるティワナク文化です。
  天地創造の神「パチャカマ」は、アンデス及びその海岸地方の住民から広く崇拝されていました。現在のティワナク遺跡を中心とした、この文化では土器・織物・金属工芸などで分業がはかられ、量産化が行なわれ工業技術が急激に発展しました。同時に神官・貴族・平民・奴隷などの身分階層に分けられました。この時期、宗教の中心地であったティワナク神殿には、周辺地域から多くの巡礼者たちが集まってきただろう、ということが想像できます。
  共通の文化と言語を持っていた先住民アイマラ族に、10世紀ごろ大きな災いが降りかかりました。北部のペルー地方からやってきたケチュア語を話す部族(ケチュア族)による侵略が始まったのです。このケチュア族は周辺の部族との抗争を繰り返すことにより次第に勢力を拡大し、南米アンデス山脈のほぼ全土、南北の距離4000kmに及ぶ広大な帝国を作り上げていきました。インカ帝国と呼ばれるこの帝国は長きに渡りアンデス一帯を支配し、配下の各都市ではケチュア族の官僚による統治が行なわれました。インカとは”太陽によって選ばれた民”の意味であり、その始祖はとうもろこしとリャマ(牧畜)のための土地を求めて旅を続けている途中に、今のペルーのクスコにたどり着いたと伝えられています。好戦的なイメージがありますが、大部分の一般の人びとは農民であり、ボリヴィアでは先住民アイマラ族と同様、乾燥した大地に適したとうもろこしや芋などを耕作し、生活していました。

 16世紀になると先住民アイマラ族やインカのケチュア族たちは、スペイン人の侵略によって悲劇的な結末を迎えることになってしまいした。
  この時期、ヨーロッパの列強諸国は世界中で植民地化を推し進めていました。北アメリカ大陸では、イギリスなどからの移民は先住民とは交わらず、ひたすら土地を収奪していきましたが、中南米の先住民はさらに悲惨でした。スペイン人の侵略軍は、黄金の獲得が主な目的で、行く先々の都市や村で略奪行為が繰り返されました。各地の都市や神殿が持っていた金銀などは次から次へと延べ棒に変えられ、民家は略奪され、歯向かう者は虐殺され、婦女は暴行されました。スペイン人の侵略軍は、「征服者(コンキスタドーレス)」と呼ばれ、彼らが通った後は何も残らず、町や村は廃墟と化していったのです。

 アンデス山脈一帯でも数千年にわたって築き上げられた先住民たちの文明が、この略奪行為によりたった数年で破壊されてしまいました。征服が始まってから1570年半ばまでの約45年間に、アンデス地方の先住民の人口は、1/2〜1/4に減少したとも言われています。スペイン人による占領行政は、その後も先住民たちに過酷な労働を強い、また土着の信仰からカトリックに改宗させ、その布教を名目にスペイン語を強要していきました。 

 このような歴史的背景により、複数の先住民族と、メスティソと呼ばれるスペイン人と先住民との混血が混在する多民族国家が形成され、今に至っています。 

 ボリヴィアは広大な国土に多様な民族が住んでおり、毎週のように各地でカーニバル(お祭り)が行われています。こちらではカーニバルを生きがいとし「そのために日々働いている」と、いう人たちを多く見かけます。知人の話では、カーニバルのためにお金を貯め、その日に生活費のすべてを使い切ってしまい、翌日から生活ができなくなるという人たちまでいるそうです。

 華やかなカーニバルですが、私の住むラ・パス市で歌われていた詩の中にこんな一節がありました。「辛いことや悲しいことがあっても、もう泣かない。これからは前を向いて生きていく…」。男の人たちが互いに肩を組みながら大きな声を出して踊りながら歌っていたのがとても印象的でした。普段は質素な生活をしている人たちが、この日ばかりは着飾って、“歌い”“踊り”、日々の辛いことを忘れ去りたい、と願っている。人びとにとって楽しいカーニバル。それぞれの身体に流れる熱い血が、民族のつらい過去の歴史と合流し、何かを訴え、叫んでいるような気がしました。

 太古の昔から息づいてきた文明が、侵略行為によりたちまち消失してしまったわけですが、先住民の末裔たちの暮らしは今も昔ながらに続いています。古代の文明は消えても、そこで暮らす人々の日々の営みは今も残り、その文化はまたその子孫へ受け継がれています。

 余談になりますが、15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸に到達した時、当初その地をインドだと思い込みました。そこに住んでいた先住民をインド人と勘違いし、スペイン語でインド人を意味する”インディオ(英語では、インディアン)”と呼ぶようになりました。現在、日本でも、テレビ番組や一部の本や辞書などで中南米の先住民を”インディオ”と呼称したりしています。しかし、先住民の虐げられた人びとのことを考える時、征服者たちが使っていた侮蔑的な呼称を現在も平然と使用している無頓着さには疑問を抱きます。ここで暮らす先住民の人たちにはそれぞれに部族名があり、またそれをとても誇りにしています。ボリヴィアの人びとも、先住民を侮蔑するような”インディオ”という呼称は決して用いません。

 栄華を極めた古代文明でしたが、アンデス地方の人たちは、文字を持っていませんでした。現在、ボリヴィアでは、先住民(アイマラ族・ケチュア族)の言葉をアルファベットと変形した特殊な文字で表記するようになりました。

 それぞれが異なったルーツを持ち、互いにそれを理解し且つ共存しているボリヴィアの人たち。それぞれの生き方があり、日々の暮らしがあり、その営みは輝いています。毎日が忙しなく過ぎていく日本の私たちが、学ぶことも多いような気がします。

 ▲一つ前に戻る ▼次のページへ  | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |

 CONTENTS
  ショッピング
アンデスの職 人
ギャラリー(フォト)
ボリヴィア紀行
 ANDES BOX
  店舗情報
サイトマップ
当サイトのご利用
プライバシー・ポリシー
お問い合わせ
| HOME | 店舗情報 | サイトマップ | 当サイトのご利用について | プライバシーポリシー | お問い合わせ
Copyright © 2008 SYSTEMBOX INC. All rights reserved.